この地に住んではや15年。
平屋一戸建てのお隣さんは一人暮らしのばあさんで、
越して来た時すでにその婆さんはうちの隣に住んでいた。
そして今も住んでいる。
その頃、彼女はかなりの大酒飲みだった。
夜10時を過ぎると必ず部屋の中で暴れる音がして、
しばらくするとうちに怒鳴り込んでくる。
「お前が近所の人にあたしの悪口を言っているのを聞いた」だの
「お前が大家に苦情を訴えたのは知っている」だの
根も葉もないわけではない難癖をつけた後の捨て台詞が、きまって
「やくざをやってる息子がこれから来るから、あんた覚悟しとけ!」なのには毎回ゾッとしたが、やくざの息子がやって来た事はついぞなかった。
週に2度は繰り替えされていたそんな怒鳴り込みと言い合いの果て、ある夜、ばあさんは
「それじゃ、うちに来てゆっくり話し合おうじゃないか!」と言い出した。売り言葉に買い言葉で、こちらも
「おう、分かった。今から行くから家で待っとれ!」と
ばあさんを先に帰し、夕飯の準備を中断すると、サンダルを突っかけ彼女の家に殴り込んだ。
同じ間取りの狭い平屋。
6畳間のこたつを勧められ、足を突っ込み座り込むと
ばあさんは自然とビールを運んで来た。
飲んでも飲んでも、ばあさんは新しいビールを運んで来て、
何を話したのかはもう覚えていないのだが、
ガラス棚の上に派手な衣装を着た若かりし頃のばあさんと思われる肖像画が飾ってあって、なんとなく
「ああ、この人は以前水商売をしていたんだな」と勝手に納得したような気がする。
小一時間ほどそうして時は過ぎ、
「夕飯がまだなので、今日はこれでお暇します」と缶ビールを飲み干し暇を告げた。
玄関先で、ばあさんは「あたしはね、あんたのこと息子みたいに思ってるんだよ」とか
「遺産はね、そりゃそんなにはないんだけど、あんたに残したっていいと思ってんだよ」などと酔っぱらっているもんだから口走り、
俺はと言えば、やたらと暗い玄関で自分のサンダルを探していた。
するとしばらくして、ばあさんも何故か土間に降り立ち一緒にサンダルを探し始めた。
狭い玄関で、いい年した男とばあさんが押し合いへし合いするはめに。
そうして気がつくと、ばあさんは俺の肩に手を回し、目をつむってキスを求めていた。
「そうか、こうやって男と女はキスをするんだ」
と思ったか思わなかったか。
その時は、「おばあちゃん、駄目だよ、それは駄目!」と俺はばあさんをやんわりと突き放し、
ばあさんは口元に手を当てて笑いながら「そうお?そうなの?駄目なの?」と俺を送り出した。
あれから10何年経って、今では、ばあさんが酒を飲んで暴れる事もなくなった。
当時20代だった自分が30代後半になってるわけだから、当時いくつだか分からない婆さんも確実に10何年歳を取ったわけだ。
いまじゃ夜10時を過ぎても実に静かなもんだ。
コオロギや鈴虫の鳴く声と一緒に、ばあさんの寝息も聞こえてきそうなもんだ。
もう、ばあさんはお酒を飲むのをやめたのかもしれない。
こっちは相変わらず酒を飲み続けているけど。
あの時、別れのキスぐらいすればよかった、と今では思う。