例えば実景を撮影するとき、私は三脚とカメラバックを担いで走り回ります。
なんで走るのかといえば、それはあと少しで太陽が沈んでしまうからだし、小雨だった雨が本降りになってきたからだし、我慢していた小便がもう我慢できなくなってきたからです。
で、三脚とカメラバックを担いで走り回っている時にふと思い出すのは、とある戦争映画で見たワンシーンです。
年端も行かない兵士が、ダブダブの軍服を着て、片手に弾薬を詰め込んだ箱を、もう片方の手に銃架である三脚を担いで火点へ向ってドタドタと走って行くシーン。
飛び交う弾丸をかいくぐり兵士は三脚を拡げます。そこに後から続いた別の兵士が機関銃を備え付けるのです。
で、何を言いたいのかといえば、三脚は、時と場所を変えれば人を殺す道具にもなるという事で、日本語での「撮影」が英語では「shoot」という単語になるのもそこから来ているのかもしれません。
カメラの望遠レンズは、狙撃兵が使うスナイパーライフルのスコープと基本的には変わりません。
そこで思い出すのがヴィム・ヴェンダース監督が言っていた
「キャメラは優しさを込めて存在や事実を眺めることを改めて学ぶべきなのです」
という言葉で、いちいちそんなことを考えて撮影をしているわけではないのですが、「優しさを込めて存在や事実を眺める」ということをキャメラが学んだ時に、はじめて映画にとって重要な「まなざし」というものが生まれるのだと思います。
その実践の一つとしての『最後の風景』。
お時間ある時に是非見て下さいな。
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